Interview

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『ジョーのあした』阪本順治監督インタビュー

――阪本監督と辰𠮷さんの最初の出会いと、今回の映画『ジョーのあした』の制作に至った経緯をお聞かせ下さい。
阪本 そもそもは辰𠮷君がプロデビューを果たした1989年に―それは僕のデビュー作『どついたるねん』が公開された年でもあるのですが―『どついたるねん』の評判を聞いた雑誌『Number』の編集者から依頼されて、デビュー1戦目を終えた新人ボクサーである辰𠮷君に、ボクシング映画を撮った新人映画監督がインタビューするという企画で出会ったのが最初です。それから個人的に彼の試合を見に行ったり、奥さんのるみさんも含めて一緒に食事に行ったりして親しくなっていきました。だから、付き合いとしては25年以上ですね。
その後、1995年に公開された『BOXER JOE』という、辰𠮷君が再び世界王者に挑む姿を描いたドキュメンタリーに、彼を応援する家族というドラマ要素を付加したドキュメンタリー・ドラマを僕が監督することになるのですが、これは全くの偶然でした。この映画の企画を立ち上げた人が別にいて、日本映画監督協会に「辰𠮷というボクサーの映画を作る企画があるのだが、誰かボクシングに詳しい監督がいたら紹介してほしい」という問い合わせの連絡があり、「だったら『どついたるねん』と『鉄拳』を撮った阪本がいいだろう」と僕の名前が挙がったそうです。企画した人も、監督協会も、僕が彼のことをよく知っているというのは全く知らなかった(笑)。
もちろん僕は二つ返事でOKして、1994年7月のハワイでの復帰戦から、同年12月の世界バンタム級王座統一戦まで、辰𠮷君の試合やトレーニングの様子を追いました。完成した『BOXER JOE』はドキュメンタリー・ドラマというアイデア自体は非常に面白かったし、ドラマ部分も愛着のある作品なのですが、辰𠮷君自身の姿に関してはまだまだ撮り足りない気持ちが残っていた。そこで、この後も自主制作で、引き続き個人的にカメラを回したい、と彼に申し出たのです。
 その時点では辰𠮷君が引退するまでの姿を追ってまとめようというくらいの軽い気持ちでスタートしました。まさか20年経っても引退しないとは想像もしていませんでした(笑)。
――20年間に及ぶ撮影は、どのようなペースで、撮影自体はどのようにして行ったのですか。
阪本 1回目の撮影は1995年の8月、ラスベガスで彼がノンタイトル戦を行った時に、ラスベガスまで追いかけていって撮影しました。完成した『ジョーのあした』の冒頭シーンで練習風景の映像だけ使っていますが、実際にはインタビューも行っています。
 その後は僕の映画制作がないタイミングで、彼の試合の直後や、彼のお父さんが亡くなられた時(1999年1月)、所属する大阪帝拳を離れて一人でトレーニングを行うようになった頃(2000年11月)、お父さんの十三回忌で倉敷に行った日(2011年1月)、次男の寿以輝君のプロテストの日(2014年11月)など、節目節目でカメラを回しました。インタビューは行わないで試合だけ撮りにタイに行った時も2回あって、それらを含めると最後の2014年11月まで、20年間で17回取材しています。
 基本的にはインタビュアーである僕と、プロデューサーの椎井(友紀子)さん、撮影の笠松(則通)さん、録音の志満(順一)さんという最低限のスタッフで、スーパー16ミリのカメラを回しての撮影です。時々助手の方に代わりに入ってもらうこともありましたが、基本的なスタッフは『BOXER JOE』の時から20年間変わっていません。
 撮影にあたっては長々とカメラを回してもしょうがないし、自主制作ですからそんな予算もないので(笑)、自分でルールを決めたんです。まず、16ミリのフィルムは1巻が11分程度なのですが、インタビュー用にフィルムを回すのは3本まで。予備で1本用意して、それはインタビュー以外のトレーニングの様子や外景などの撮影に使用しています。つまり1回のインタビューは33分と決めた。ボクシングの試合じゃないですけど、制限時間があった方が緊張感もあるだろうし。そこで何を聞くか、聞き逃しのないように、あらかじめノートに質問内容を詳細にメモして取材に臨みました。そんなふうにノートにメモして質問されることも辰𠮷君にとってはこれまであまり無かったようです。それから、テレビの取材などは慣れている彼も、フィルムでの取材は珍しかったので、フィルムのロールチェンジのためにカメラを一旦止めなければならないことに「何で?」と不思議がっていましたね。そのうち慣れてきて、「もうすぐカメラ止まるんちゃうの」とか、カメラが回ってない時をわざと狙って大事なコメントを話し出したり。茶目っ気があるというか、とてもクレバーだと思います。20年つきあっても馴れ合いのない、ひと筋縄ではいかない取材でした。
――当初予定していた、辰𠮷さんが引退したら作品としてまとめるという意図を変更して、この段階でまとめようと思った理由はどういうところにありますか。
阪本 このままだといつまで経っても終わらないから(笑)。まあ真面目に言えば、35ミリと比べてよりパーソナルでありながら商業作品としても成立させることが出来る、スーパー16ミリカメラでの撮影を最初に選択したわけですが、20年経った今日、もっと持ち運びにも便利で、安価なデジタルカメラが主流になっています。ロールチェンジも頻繁に要らない。だからといってデジタルにして、11分×3回の撮影方法も変えて撮り続けるということは、根本的に違ってくるだろうという思いがあり、16ミリでの撮影にこだわって続けていきつつ、いろいろな限界も感じ、作品としてどこかで区切りをつけたいという気持ちはずっとありました。今回、撮り始めてちょうど20年という期間が一つの節目かなというのと、次男の寿以輝君がプロデビューしたというのがタイミングかなと考えたんです。息子がプロになったことで辰𠮷君本人も区切りになるのかなと思っていました。もっとも、かえって現役への闘志を燃やしているようですが(笑)。
――映画は基本的に辰𠮷さんへの単独インタビュー映像を中心に、他の要素はなるべく廃する方向で81分にまとめられています。試合の映像や、周辺関係者への取材、家族へのインタビューなども用いて作るという方向性もあったと思いますが。
阪本 実際は、奥さんのるみさんにもインタビューしていて、この時はフィルムもいつもの倍以上回しています。完成した作品には殆ど使用していませんが、試合の後のインタビューでは必ずその試合の戦術について、あの時の腕や足の動きはどうだったとか、辰𠮷君に細かく聞いています。それに合わせて、ボクシング関係者や、対戦相手にインタビューすることも検討しましたし、また彼は芸能界や文化人にもファンや個人的にも親しい人がたくさんいるので、そういう人に取材することも考えました。ただ、そうやって作った映像は、既存のドキュメンタリー映像と変わらないのではないか、他の人間にも作ることは出来るだろう、という思いがずっとありました。
ボクシングというスポーツは、人間にとって生命に関わる「顔」、脳を保護している頭部や眼にダメージを与える殴り合いを唯一認めているという、危険なスポーツです。K―1で頭部にキックしたりして、一時的に気を失うことがありますが、殴り続け、ダメージを与え続けるボクシングの方がずっと危険性が高い。それほどまでに危険なスポーツに、なぜ人は魅せられ、そしてボクサーたちはなぜその危険なスポーツを職業として選びリングに立ち続けるのか―これは僕にとって説明出来ない永遠の謎であり、にも関わらず、あるいはそれ故にこそ僕はボクシングに魅せられ続け、ボクサーという職業を選んだ人間に興味を持ち続けています。
辰𠮷君はプロボクサーの中でもとりわけ言葉を持っている人で、インタビュー対象としては一筋縄ではいきませんが、コメント一つ一つにクレバーなところがあって飽きさせない。そういう意味では唯一無二の存在です。彼の何気ないひと言が、彼の身振りが、どんなボクサーにも評論家にも解説出来ない、ボクシングの魅力を、ボクサーという職業を語ってくれているのではと思います。だからこそこの映画では、余分と思われるものを出来るだけ排除し、彼の血と肉を通して出た言葉だけを丹念に追っていきたいと思いました。ですからあえて周辺取材は行わなかったし、他でいくらでも観ることの出来る試合の映像も、最低限しか引用しなかったんです。
あと、僕自身が影響を受けたドキュメンタリー映画ということを考えてみた時、真っ先に思いついたのが『寿ドヤ街 生きる』('81年)という渡辺孝明監督の作品なんです。個人的にも仕上げスタッフとして少しこの映画のお手伝いをしたのですが、ドヤ街と言われた寿町に暮らす日雇いの労働者たちの姿や発言をひたすら追った作品で、余分な説明は一切ない。それがかえって彼らの姿を浮き彫りにしていて、強く印象に残っています。僕がドキュメンタリー映画を作るとしたら、この映画のように作りたい。そういう思いもありました。
――ナレーションを豊川悦司さんが担当されています。
阪本 僕の映画によく出てくれている俳優だから、そのつながりで、というだけではなく、実は豊川君は僕とは全く別のところで辰𠮷君と親交があるんです。そもそも辰𠮷君と布袋寅泰さんが知り合いというか、布袋さんが辰𠮷君のファンで、聞くところによれば94年の辰𠮷君と薬師寺保栄さんとの世界バンタム級王座統一戦の時、会場が名古屋のレインボーホールで行われたのですが、翌日同じ会場で布袋さんのコンサートがあって、控え室に布袋さんが入ってみると床が血だらけだったという(笑)。僕が紹介するという形で辰𠮷君と布袋さんが知り合って、その伝手で豊川君も辰𠮷君と付き合うようになったらしい。同じ関西出身だし、彼は彼でずっと辰𠮷君に注目し、応援してきた。そういう縁もあって、彼にナレーションをお願いしたわけです。
――それにしても20年という長い間、辰𠮷さんを撮り続けた理由、阪本監督が思う、被写体としての辰𠮷さんの一番の魅力はどこにあるのでしょう?
阪本 先ほどの答えと重複しますが、本当にボクサーとして唯一無二のクレバーだというところと、人間としても魅力的で、ずっと付き合っていきたいと思わせてくれる人間だということ。辰𠮷ファンも、アンチ辰𠮷ファンも―他のボクサーに比べてアンチがたくさんいるということも、彼の魅力の不思議さだと思います―今回の作品で、辰𠮷君の決して器用ではないが、真摯な生き様を、そして人がボクシングに惹かれる理由というものを感じ取ってもらえればうれしいと思います。
今回の『ジョーのあした』を辰𠮷君自身に観てもらってどういう感想を持つのかが一番心配だったのですが、で、『ジョーのあさって』はいつ作る? って(笑)。映画は20年経ってようやく一つの形として完成しましたが、辰𠮷君との付き合いはもちろん、彼の姿を追い続けることはまだ終わっていないのかなと思います。